バーチャルリアリティ

 試験対策で世界史の復習をしていたのだが、ポーランドのあまりのボコられっぷりに涙がちょちょぎれる(方言)。
基本的に大国に取ったり取られたりで、たまに自分たちの力で支配者を追い出そうとすれば猛然とフルボッコにされる。エカチェリーナたんが「領土を増やしたいわ(`・ω・´)」と言えば、フリードリヒ君がヨーゼフ君を誘って、「独り占めイクナイ(・A・)」と三分割させるわ、ナチスに占領されてたら「ナチス、こっち来んなよ」とスターリンが助けに来た振りして、「助けてやったから領土よこせ。足りなくなった分は、戦争終わってからドイツに貰え」と分捕られるわ、そんなことの連続だ。
取ったり取られたりした小国は山ほどあるが、ポーランドがこれほど気になるのは押井守の『アヴァロン』と「ヘタリア」のせいである。『アヴァロン』は、DVDレコーダの中で積読ならぬ積視聴となっており、冒頭の石畳の街並みを戦車と兵士がやってきて市民とバリバリ銃撃戦をおっぱじめた所で主人公登場、までを三回くらい見てそのままになっている。
 初見では、「ポーランドの市街戦て、生々しくてやだなぁ」くらいの印象だったのが、火炎瓶だけでナチスの戦車に戦いを挑むポーランド市民だの、丸腰で連行されながらもカメラに向かって笑顔を振りまくポーランド将校、戦後発見された彼らの遺体などという映像をドキュメンタリーで見た日には、生々しさを通り越して「やめてくれ」と頭を抱えたくなってしまった。
 しかし、あの映画がポーランドで撮影されたこと、ポーランドで実際に起きたことを知らなければ、戦車まで出てくる市街戦にリアリティと撃たれた市民が情報体として消滅するバーチャルとの落差を観ることは出来ない。この作品を観るために、ポーランドに対して感じるやり切れなさは必要なのである。何も知らなければ、昨今氾濫するサイバーパンクの一つとして笑いながら見られるのだろう。明るく楽しく生きるというのは、適度に目を閉じ耳を塞ぐということだ。無知あるいは思考の放棄による安楽。
 そうした安楽を追求して描かれたのが「ヘタリア」のポーランドではないか。単にお馬鹿でのん気のポーランドというキャラクター造形にはひどく違和感を覚える。実際に現代のポーランド人がお馬鹿でのん気だとしても、それが常に占領される者が生き延びるために身に付けた強かさだと考える余地もなく、先天的な性格としてしまうのは浅慮ではないか。『アヴァロン』とは逆の意味でもやもやするのだ。
 自分の経験から思うに、ある知識人たちが呼ぶところの自虐史観を植え付けられた世代は、実は自虐史観なんてちっとも持っていなくて、戦勝国も敗戦国も同等に悪であると感じるが故に、自身が中立な視点に立てると勘違いしてしまい、過剰に中立であろうとした挙げ句に辿り着いたのが、「ヘタリア」作者及び支持者の「みんな仲良し!」になるのではないかと。作者は中立的傍観者になれるなどと夢を見ずに、初心を貫いてイタリアのヘタレっぷりを粛々と書き続けるべきだった。でなければ、もう少し自分の立ち位置を振り返った方が良い。人間に関することで政治的でないことなど一つもない。

 『アヴァロン』には精神的時間的に余裕が出来るまでDVDレコーダの中でまだ眠っていてもらう。