宗教について少々

 最近、浄土真宗カトリック神道と和洋中な感じで法事やら神事やらに関わっていますが、そうしたちびっとした関わりの中で感じたのは、根元的な願いというのが「許されたい」ということなのではないかということです。仏教は今生の罪をなくして仏になろうとするし、キリスト教はそもそも罪を背負って生まれてくるからそれをなくしたい。神道は「諸々の罪穢れあらむをば祓い給へ清め給へ」とのる。
 では、罪とは何かという問題が出て来る。
 人は生きていれば誰かと関わらずにはいられない訳で、それはうまくいくこともあればどうしようもなくこじれることもある。単なる対人関係の問題から倫理的法的問題まで含めてそれはなくすことが出来ない。うまくいかなかった、自分のせいでそうなったというのは結構、後を引くもので出来ればなかったことにしたい、やり直したいと思う。そうした気持ちの集合が「罪」という意識なのではないかと。
 問題は、宗教に求められているのがそうした「罪」からの救済であるならば、宗教者はそれにどう応えて行くかということ。
 今まで巫女をしている時は、「参拝者が有難みを感じるように(あるいはおめでたいと思って貰えるように、来て良かったと思って貰えるように)」と意識して振る舞っていた。それは訪れた人の中でその人が抱えている問題を消化してもらえたらいいという、距離を取った関わり方だったと今では思います。
 今回の巫女は「この人(達)が幸せでありますように」という気持ちに重点を置いてお勤めしてきました。巫女を始めた頃は「来てくれてありがとうございます。」と「また来て貰えるように」と思いながらしていたのですが、自分の中で少し変わって来たなと感じます。
 お祭りの間、「何かやってる。気になるけど入って良いのかな?(・ω・≡・ω・)」とウロウロしている女子小学生sがいたので、「良いことあるようにお願いしてあげるから、入っておいで」と呼び込んでお祓いして来ました。五、六年後に巫女やりたいとおもってくれるといいなぁと思いながら。お祓いが終わった後、小学生達がなにをお願いしたかお互いに教えあっていたのですが、「今年、一年幸せでいられますようにってお願いしたー」「私、元気でいられますようにー」「でも風邪は引くだろうから幸せの方が良くない〜?」あなた達が一年間幸せでありますように。ちょっと「お願い事を100個まできいてください」という気がしないでもないが。しかし、日本の神様の御利益は一年限りという意識はやはり初詣で培われるのだろうか。
 お勤め終わって帰り際こどもたちを見ると、這いつくばって田んぼに水を入れるために増水している用水路に群がっていた。暗渠にはまるなよー。田んぼの水栓抜いて回るなよー。祭りの本来の目的をすっかり忘れていたが、今年も五穀豊穣でありますように。