救済としての物語について

角川古語にない項目を調べるため、図書館に行き日国大を見るがこっちにもない。歌語だったら国歌大観か?
仕方なく、桜庭一樹の「少女には向かない職業」を読んで帰る。小説としての物足りなさは今までで一番感じなかった。主人公の思考の核になるものを分かり易く使えていた。「砂糖菓子」と「七竈」では少し物足りなかったので。
少女七竈と七人の可愛そうな大人」を読んだ時にも思ったのだけれど、児童文学(ヤングアダルト含む)の一つの転換として親の相対化があると思う。
しばらく前にケストナー原作の映画を立て続けに見た後に「七竈」を読んだせいか、親は子どもを無条件に受け入れるべきというストーリーから、親に愛されないor親を愛せない事実をいかに受け入れるかという物語に変わって来ているような気がする。
もっと以前の作品では梨木香歩の「裏庭」だったり、「いつかパラソルの下で」で森絵都もそこにいきついてしまった感がある。
ケストナーの「ふたりのロッテ」が、離婚した親を子どもが復縁させる非現実的な物語であるという理由でアメリカの図書館から排除されたことがあるそうな。馬鹿馬鹿しい話だけれども、図書館が排除しなくてもそうした物語は求められなくなりつつあるのかもしれない。
アダルトチルドレンという概念にハマったのは私より少し上の世代で桜庭や森も含まれるのかもしれないが、子どもの庇護者である大人の絶対性が崩れた後に子どもたちが自身で救いを見いだそうとしている時代の流れがきているのかもしれない。
親の相対化をいち早く書いたという意味で、三原順の「はみだしっ子」のすごさが改めて分かる。



ここまで書いて、親許を離れた後に「自分を育て直さなければ」という気持ちが湧いて来た時のことを思い出した。上野いうところの父の庇護下から夫の庇護下へという事が鮮明でない頃のこと。
余談だけど、フェミニズムというのは主義や思想ではなく、葛藤と自己回復という経験の集合体だ。個人を離れて語ることは出来ない。そこに生の感情があるということを忘れてはならない。故に学問になりえない領域だと思っている。こう書くと結構な人を背中とは言わないが斜め後ろから撃ってる気はするが。